
2007年01月29日
僕は音楽知らずらずでメロディが美しいと判断出来なかった

僕は音楽知らずでメロディが美しいと判断出来なかった、
本当の野球少年でした。おまけに僕が小学校1年生の時、
沖縄は日本に返還されました。順風満帆の人生の始まりとは、言えませんでした。
その僕が今は音楽家・・・・
毎日、バットとグローブさえあれば幸せでした。
そんな幼少期を過ごしていたのですが、ある日、頭を殴られた衝撃がありました。
それはブラスバンドとの出会いでした。それとホルンとの出会いでした。
ホルンの音は、僕を別世界に連れて行ってくれました。
この日以来、僕の親友はホルンという楽器になりました。
逆に、やればやるほど、この楽器は難しいという事が分かってきました。
毎日、毎日、唇から血が出るくらい練習をしました。
そんな学生時代を送っていた頃、ホルンを専門的に学びたい、
という気持ちが芽生えて来ました。
僕は音楽大学に行きたいという「夢」に変わりました。
「夢」には壁がつきもので、僕も例外ではありませんでした・・・。
音楽大学に入れたとしても、費用がもの凄くかかる事を知り愕然としました。
ある日、意を決して両親に夢を語りました。
「東京の音楽大学に行って専門的に勉強をしたいんだけれど・・・」すると、
父は数分黙った後、僕の目を見て言いました。
「もし、試験に受かったら、許してやる」と一言だけ呟きました。
僕はさらに練習量を増やし、今まで弾いたことのないピアノも毎日4時間以上
練習しました。
受験が終わり、結果が出ました。
「合格」
僕は飛び上がって喜びました。両親にもすぐに「合格」の知らせをし、
喜んでくれました。
しかし、喜びも束の間、入学金、学費、の問題が出てきました。
僕は複雑な心境で沖縄に戻りました。勇気をもって学費の事を親に言い始めたとたん、父は僕を遮って、言いました。「心配するな、お金は借りれる事になったから」
僕は涙が止まらなかったです。
僕は数ヵ月後、夢いっぱいで音楽大学に通っている自分がいました。
大学2年生の頃、僕の夢は留学になっていました。
それは、たまたま聴いたCDがもの凄い演奏だったからです。
演奏者の名前はフィレンツ・タルヤーニというハンガリー人でした。
僕はこの人の下で学びたいと強く思い、どうしたらこの人からホルンを学べるのか、
かなりの時間を使って調べました。
ハンガリー国立リスト音楽院の試験に受からなければ、
タルヤーニ先生に師事することが出来ないことが明らかになった。
僕は卒業と同時に、リスト音楽院の試験を受けるため、
コネも何も無い状態でタルヤーニ先生に会う夢だけで渡欧しました。
ハンガリーに着くと、一目散にリスト音楽院に行き、
タルヤーニ先生のレッスン室の扉をノックしました。
タルヤーニ先生はドイツ語は話せるが英語はまったく話せませんでした。
僕が困っていると、ハンガリー人の学生が通訳をしてくれました。
「僕はあなたからホルンを学びたい」すると、ハンガリー人学生が
タルヤーニ先生の言葉を僕に伝えてくれました。
「随分遠い所から来たんだね、日本人の生徒は今まで教えたことがないんだ」
僕は「どうにか教えて下さい」と情熱いっぱいに懇願した。
するとタルヤーニ先生は言いました。
「分かった、では試験に受かったら君をとってあげよう」
僕は夢の中にいるみたいだった。お礼を言って、レッスン室をあとにした。
僕は、先にハンガリーに留学されていたフルーティストの北川さんの所に
無理を言って、転がり込み、練習に練習を重ねた。試験の結果がでました。
「合格」でした。僕は留学中、タルヤーニ先生から得られる全てを吸収しました。
さらにラッキーだったのは、僕が住む所になったのは、
ハンガリーを代表する天才ピアニスト、ジュラ・キシュのセカンドハウスであった。
ジュラ・キシュ先生からも、沢山の音楽、人生の指針を教えてもらいました。
僕はハンガリーから帰国し、第2の故郷、ハンガリーの精神を伝えて行こう、
と決心しました。
僕の「夢」はまだまだ続いています。
この「夢」を実現させるために、精一杯、頑張って行こうと、
今でも心に誓い、自分自身に言い聞かせています。
30日間無料レッスンしています。。。
沖縄音楽教室「ゼネハーズ音楽院」

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